「マナブ」は「マネル」
「学ぶ」という言葉の語源は「マネブ」つまり「マネル」にあるという。芸術の世界にみられる技の継承は、弟子が師の技を日常の中で垣間み、ときには盗むといったことで模倣し、そこから自己の技を見つけてゆく。連綿と続く長い線上に師の模倣から脱却した個性が点々として輝いたとき、人はそれを名人とよぶ。
模倣つまり「マネル」は学ぶことにおいて大きな位置を占めていることは論を俟たない。学ぶことの本質が自己の確立であるとすれば、いつ、どのように模倣から脱却できるかに尽きるであろう。
W・A・モーツァルトは少年時代の大旅行中に、当時ヨーロッパで席巻していたあらゆる作曲技法を身につけたという。なかでもロンドンのバッハ(大バッハの末子、J・クリスチァン)のギャラント様式と、ボローニャのマルティーニ師の厳格対位法様式による教会音楽の摂取は多大なものであったが、しかし、晩年の(といっても三十才前から三十五才で亡くなるまで)彼独自の音楽世界にはもうその痕跡は無い。師のもつ技がテクスチュアそのまま露呈されることなく、濃密に撹拌された後の精華が作品となったのである。
名人作曲家達の作品中、それぞれ偉大な先人の影響のもとにあったものが突如、独自の音楽言語で綴られたものが現れる。模倣から脱却し、自己の音楽言語が確立されたとき、まさにそれは「開眼」とよぶにふさわしいものである。師の技が弟子に継承されるとき、弟子がそれにふさわしい器であってはじめて具現する。
「学ぶ」ことの本質は如何に模倣から脱却するか、このときのテクニックの習得そのものではなかろうと考える。私自身、自己確立への証しとなる音楽言語が仄かに見えはじめた道を防徨している。そのとき、迷路に踏み込もうとするのをおしとどめてくれるのは次の言葉である。
「芸術の変遷する外形に関しての模倣は有害無益であるが、根本的な基礎芸術の永久不変の理念に関しての模倣は有益であり、不可欠でさえある」-H・ライヒテントリット橋本清治訳-
滋賀大学教育学部付属小学校 教育短信 初等教育みずうみ 101号(1993年7月20日発行)に寄稿
能力・可能性
或るピアノ・レスナーの言。
「子どもたちは無限の可能性を持っている。それを引き出し、育てるのが私の役目」
これはピアノ・レスナーとしての理想の姿であるが、反面これほど危惧を抱かせるものはない。
レスナーの姿勢が即、子どもたちに反映することはどの教育場面でも同じであるが、音楽の場合は子どもの個性がより重要視され、さらにテクニックの優劣がこれに加わる。子どもの心身の発達をよく観察、把握し、学習曲の選定にあたるが、このとき、レスナーの錯覚、認識不足、またレスナー自身による力量の程が重大な影響をもたらすことになる。10才にも満たない子どもに指が廻ることだけを過信し、信じられないような大曲を学習させていることが少なくない。そこには喧噪きわまる空疎な音の渦と、疲労しきった子どもの姿しかない。可能性を引き出す幻想に惑わされ、可能性の芽は無残にも摘みとられてしまっている。
学習成果の根底に能力の差異があることを見過ごしたことによる。こうなるとピアノ・レスナーの言は虚しいものとなってしまう。子どものもつ能力にふさわしい学習曲を的確に与えることがレスナーの任であるのに現実はどうしてもそれを上まわっている。学校教育の場にあってもこれに似たようなことはないだろうか。
教科カリキュラムの内容が前倒し傾向にある今、教育現場にあってはより子どもたちの能力についての洞察力が必要となるだろう。レスナーに対して学習者一人ずつのレッスン形態にあってさえ、子どもたちの能力についての把握は難しいのである。バイエルやチェルニーの練習曲、M・クレメンティ、J・クーラウ等のソナチネが子どもたちのレパートリィ定番となっているが、実はこれらの曲、成人の初心者のための教材なのである。バイエル等はともかく、ソナチネは音楽の量が小さいとはいえ、内容豊富なもので子どもたちにとっては手に余るものである。しかし学校で用いられる各教科の教科書は当然、子どもたちの能力を想定したものである。能力と可能性を引き出すのは現場の深い洞察力と指導力であり、そして良心であろう。
滋賀大学教育学部付属小学校 教育短信 初等教育みずうみ 103号(1993年12月20日発行)に寄稿
道草
「道草を食う」―なんとすてきな言葉でしょう。「小言を食う」「拳骨を食う」と同じように何かを口に入れるわけでもないのに、ある含蓄を感じます。私はこの「道草」が大好きです。今までの生き方が「道草を食う」ことばかりで、それにより得たものが随分あります。
昨今、世の多くの人々は目的に向って脇目もふらず、猪突猛進よろしく、走り抜けて行くようです。
この人達のモットーとする「一所懸命」とか、「努力する」というのは勿論、尊いことです。しかし、それは「ゆとり」というものをもってこそ成果に繋がるものではないかと思われます。つまずいたらどうする?力を使いきってしまった後は?と思わず心配してしまいます。
私のいう「道草」は目的とするものの周辺にあるものにも視線をあて、関心を持つことなのです。これは私自身、私の中にある「ゆとり」であると自負しています。
他人の眼から見れば何と緩慢、何という要領の悪さと映るでしょう。しかしこれが私の生き方での知恵に支えられたモットーなのです。作曲の勉強で、とくに旋律作法で学んだ過程で実感したものです。
旋律の持つしなやかさ、弾力性は音の動きの中での「ゆとり」あることです。
数多くある名旋律の中の名旋律、「喜びの歌」(ベートーヴェン作曲。第9交響曲の主要楽想)が、このことを如実に教えてくれます。この旋律の頂点は第3小楽節から第4小楽節にかけての下行5度、上行6度の二つの跳躍進行と、リズム変化にあります。この跳躍進行は旋律の始まりから時間をかけて音階の第III度音を軸に、上行下行の順次進行を続け、力をいっぱい溜めてこそその成果があり、感動に繋がるのです。
旋律の始まりから跳躍進行を続けてもそれは空しい音の連続でしかありません。音の動きの「ゆとり」により力を溜め、一気に目的に達する、実に意味のある名旋律です。この旋律の実感により「ゆとり」=「道草」の極意を伝授されたようです。
「道草」の効用は平成六年五月十六日、朝日新聞の「天声人語」で述べられていました。再び我が意を強くした次第です。
滋賀大学教育学部付属小学校 教育短信 初等教育みずうみ 105号(1994年9月1日発行)に寄稿
アイドマの法則
有史以前から、それこそ星の数ほどある法則の中で私たちは生きています。法則によって生かされ、法則を上手に使って生きている事実は少なくありません。
「アイドマの法則」って、皆さんご存知ですか。知ってられる方はきっと少ないでしょう。しかし名称はご存知なくても、法則の内容は熟知しておられるし、また自在に駆使して日常の指導において充分に活かされ、成果を挙げられていることなのです。
「アイドマ」はAIDMA、幾つかの単語からの、例の頭文字言語です。
この法則は日本の経済が異常な高度成長期を越え、いわゆる「モーレツからビューティフルへ」と言われた頃に定着したものです。「消費は美徳」とされた時代のよき置土産のようなものです。企業の新製品発売時におけるインフォメーション戦略のコンセプトがこの法則だったのです。
早く言えば、電波、印刷をメディアとするCMづくりの基本概念なのです。
「新製品のCMは先ず子どもを的に」とする思想は、私が東京芸大卒業後、CM業界で多くのCMソングを作り出し、その成果で実感したものです。しかしその後、活動の領域を「子どものソルフェージュ」教育にシフトしたとき、より明確に子どもたちが反応したときにアイドマの法則の意味を知ることができたのです。
先生方への説明は釈迦に説法と知りつつお話しするとすれば、アイドマ=AIDMAの初めのAは-attention-注意喚起、Iは-interest-関心、Dは-desive-欲求、Mは-memory-記憶、終わりのAは-action-行動です。
CMではアイキャッチャーやサウンドロゴで注意をひき、キャッチフレーズで関心を持たせ、リピートすることにより欲求と商品名の記憶、そして購買への行動につなげる図式なのです。これを授業の実践に置き換えると、教師からのはたらきかけから活動に至までの図式とぴったりです。
先生方があらゆることで実践されていることと、CM戦略の大きな相異点は「M」の「質」と「量」の相異点そのものです。
教育の成果はアイドマの中の「M」の蓄積とその航跡にみることができるのです。
滋賀大学教育学部付属小学校 教育短信 初等教育みずうみ 107号(1995年3月20日発行)に寄稿
私と楽譜 22 音楽生活支える「3M信仰」
音楽の虜になって以来今日まで、いつからかは最早分からないけど、私には「3M信仰」とでもいうものが音楽生活のバックボーンとなっているようです。「信仰」は少々大げさだとしても、純粋な「信奉」の現れかもしれません。
音楽の虜になったのは中学1年の頃、その代償として科学少年だった私から理科と数学のセンスを取り上げました。自宅にあったそう多くない父のレコード・コレクションの1枚がその元凶です。30cmのSPレコード、手回し蓄音機と竹針。演奏はW.メンゲルベルグ指揮のニューヨーク・フィルハーモニーです。11枚組の“ヴィクターRecord Library for Every Home”に入っていて、他の音楽は聴き流していたのにこの曲では、まさに驚天動地、音楽の虜になった一瞬でした。曲名は歌劇「魔笛」序曲(W.A.モーツァルト)、「3M信仰」第1の「M」です。
それこそレコード盤が擦り切れる程すっかり記憶するまで聴きまくりました。その響きの秘密を楽譜から探ろうとしましたが、当時はまだまだ入手困難でした。切歯扼腕しつつも時は過ぎたある日、フト立ち寄った書店で手にした「音楽芸術」誌に挟まっていたポケットスコア。目が点になることを実感しました。もちろん買い求め、二宮尊徳よろしく本誌そっちのけでスコアを読みながら家に辿り着きました。何度も何度も読み返してこの曲の凄さの輪郭が掴めるようになり、そしてレコード盤が擦り切れるのと同じくらいにスコアもポロポロになりました。
長い間「音楽芸術」誌には付録として名曲のポケットスコアが付いていて、私の楽譜蒐集癖の端緒となりました。その後、気になる音楽、面白い音楽の楽譜を集め、たくさんのことを教わりました。憧れた音楽の楽譜を追い求めて長い月日を経ましたが、その中軸となっているのが冒頭で登場した「3M信仰」です。
第2の「M」は0.メシアン、第3はH.マンシー二で、作曲法の研究に、営業用音楽のヒントとなっているもので、この2人の音楽との邂逅は幸せそのものだし、その楽譜から受けるメッセージの量は膨大なものです。第1の「M」はもちろん、純粋に音楽に浸る至福の時間のためのものです。初めてのスコアは古紙同然となって私の手元から消えました。
株式会社ミュージックトレード社(http://www.musictrades.co.jp/) 月刊「ミュージシャン」(musician)2001年9月号に寄稿
―至言―師言―私言―
困惑することがたびたびある。不意にやって来てかすめ過ぎることもあれば、ずっと居座ることもある。仕事の手をフっと休めたとき、本を読んでいて目が行間を泳いだときetc・・・それは・・・その時々の師の「お言葉」である。師の声、場の情景が過ぎ去った時間の長短を超越してやって来るのだ。「ナマケモンちゅう、ふつうのケモノになったらあかんで!」と京都弁で強烈にくる。小学校5年の担任が通知簿を渡しながら私の額を指で弾く。その痛みまで感じるから不思議。「アンタのことみたいやねェ。ちゃう」と叱りながら目は笑っている。中学校1年、眠い午後の授業で話題は俳句。先生の質問にボーっとした中で答えたのが『春の海、ひねもすのたりのたりかな』全くの見当違いだったらしい。「誰のものより、バッハの楽譜はよく読みなさい」「楽譜はより正しいものを使いましょう」「ベートーヴェンじゃあメシは食えんよ!」音楽の勉強を始めてからも多くの師、先輩からお言葉をいただき自分を見つめ直す糧としている。中でもA.ロダンの言葉『青年は牛歩を知らず』をいつも引用し、逸る弟子を戒められた師のレッスンは厳しかった。小学生で怠け心を諭され、蕪村の句で「春風駘蕩」を自覚した中学生以来、今日までの私があるようだ。いま指導する立場にある時、困惑しながらもいろいろな「お言葉」があたりかまわずやって来てくれるのを心待ちしている自分を見る。そして、これからはもう一つ「お言葉」を加えようとしている。「不恥下問」―論語より
プリマ楽器(http://www.prima-gakki.co.jp/) ピアノレスナーのための情報誌 PianoLesson88(NEWS88)(http://www.prima-gakki.co.jp/news88/) 第24号 2002年11月号に寄稿